kaminRe’s blog

気ままに徘徊している者です

空白が生み出したもの

生きとし生けるもの。

生きる自覚のあるものに可能性と存在を。

本物になりたければ、自己を認識せよ。

 

時間を巻き戻して…

 

何か面白いことをと思っても咄嗟には思いつかないもの。一時的な楽しさはあってもすぐに別の虚しさが押し寄せてくる。どうしてこんなに虚しく儚いのか。今ある、ここにある、ここに存在しているという形だけが欲しいのかもしれない。ここに自分という絶対的な存在があってこそ成立するものが。自分という存在が必要では無くなったとき、自分自身はどう思い何をするのか。いや何も出来ずにいる。確証がない、認めるものが何もない状態でどう動き出すと言うのか。酷く突き放されたような気分になる。自分に対する評価が厳しいのもある。もっと物事に寛容になればそれでいいのだろうか。ただ見過ごして通るだけにはなっていないだろうか。それは気のせいなのか。一人では行動できないから集団の力を借りる。集団の力を個人に向けると傾く。傾いた個人には目もくれず。自分ひとりで解決しろとでも言われているような。それは自分の自意識のせいでもあるのだが。言ったところで伝わらないと諦めてしまう。何が伝わらないのか、それとも必要最低限のエネルギーで動かしたいのか。いつまで伝えないつもりでいるのだろうかと。思うような相手がいないのは半分正解だが、それでは顰蹙を買ってしまう。見下している訳ではないは、どの範囲まで通用するのだろう。最初から見下していたことにならないのか。それでは相手も話を聞いてくれないだろう。個人だけの話なら済むものの、社会に出始めの人間だ。支援がないと上手く切り抜けていけないと心の何処かで思っている。またある自分、自分ひとりでもどうにでもなると。自分が始めから作り上げていけばいいと。時間があってもあっても足りない世界を築き上げるつもりらしい。それは立派だと思うが手段も自分で組み立てるか新しいものに変えなければいけない。新しいものに変えるのもまたひとつ勇気のいる行動だ。土台はいつでも孤独でひっそりとしている。その土台があってこそ今が成り立っている。上だけを見ると着飾ったようにしか見えない。中間を見ると上を着飾るための下準備。土台は最初から最後までの構想を詰め込んで想いを形にする。一番重要な部分だ。その土台に自分のありったけのものを詰め込んでしまおう。問題は何を形にするかだ。自分の人生なのだから命を懸けてもいいと思えるものがいいだろう。そこまで注ぎ込めるものがないともう自分は成立しないと何処かが言っている。何処かからやってくる絶対的な自信に身を任せて想うままに想像のままにユートピアを。社会が個人に干渉しない世界だったらどれほど良いものだっただろうか。それは今と全く変わらないかもしれないし、反対により良いものを求めた結果になるかもしれない。個人ひとりひとりの形があって存在する世界も純粋で面白いと思う。もっと自覚意識が芽生えるかもしれない。当てはめを個人の意識と勘違いすることがなくなると穏やかになるだろう。物事に正解はないのに、人間は正解を求めて行動する。それは幼い頃に叩きこまれた教訓だ。その教訓だったものは昔、新しい革新的なものだった。その頃にして見れば突飛だったことだ。時間は進行と後退を繰り返す。進むだけが良いこととは限らない。それでももう少し物事に疑問を持つことで生まれるものに着目して欲しい。振り返りなしに成長はあり得ない。自分の中の向上心がそうさせているだけなのかもしれないが。向上心に限界を決めるなという限界にチャレンジを。何も見えない、見当もつかない、分からないからこそ知るためのチャンスがある。知ることは自己を見つけること。正解に終わりはないものだから楽しいではないか。その楽しさをばねに未来にメッセージを送って過去に届けさせる。

 

最後に自分への励ましメッセージ的ななにか。

 

常識を疑え!

さらに自由であれ!

自由は縛られない、規制された自由に存在意義はなし!

自分の本物と向き合うために自己を恐れるな!

 

ここは戦場か。あぁ、洗浄だった、そうだった。