kaminRe’s blog

気ままに徘徊している者です

正しさは存在しないのかもしれない

正しいことと正義。

何故、正しいことに縛られなければならなかったのか。

ルールと法律、それは本当に正しいものだろうか。

私たちは日々正しいこと、正しくあるべきと生活をしている。

それは息苦しくないのだろうか。

いつから正しさを求めて生きるようになっていったのだろうか。

当たり前に見えている現実は本当に当たり前なのだろうか。

今そこにあるものというのはどういうものだろうか。

正しさを求めるあまり、自分を見失ってはいないだろうか。

物事を正すことは人を縛り付けてもいいのだろうか。

法律だから当たり前なのだろうか。

法律だから絶対に守らなければいけないルールなのだろうか。

その絶対的なルールは何のために成り立っているのだろうか。

国を守るとはどういうことだろうか。

国を守ったとしてその先にあるものはどういうものだろうか。

平和だとしたらどうして他の国までもが縛られるルールを作るのだろうか。

その縛られた国のことについては何も思わないのだろうか。

自分にとっての正しさは人にとっての間違いかもしれないと思わないのは何故だろうか。

その間違いと正しさをただ言い合いで終わらせてしまうのは何故だろうか。

 

色々な種類の○○だろうか。

疑問視できることは素晴らしい。疑問を持つことは必要だと位置付けているのに、その位置付けがしっちゃかめっちゃかになっていたりする。

どうしてそんなに必死になる必要があろうか、いや、死に物狂いで迫る必要などそこにはない。

何を必死に追って何に追いつこうとするのか。追いつくのではなく、自分の夢想なのか。また両方か。

「はい」、「いいえ」で分けられるような簡単な世界だとしたらどうして複雑な事象と向き合うのか。

その複雑な事象とやらは自分に何を与えていくのだろうか。

その代償と引き換えになったものは何だろうか。それは本当にあるのか、また必要なものなのか。

構造を組み立てるときの、「はい」と「いいえ」。

本当にそういったもので何ができるのか。

ただ説得させるためだけに使われているとしたら何と虚しいことか。

簡単に変えることは難しい。

難しいのは相手という存在を認識しているからだろうか。

認識違いで起きる紛争と喧嘩。本当に必要なのだろうか。

認識を別の方向へ向けていたとしたらどうなるのだろうか。

曖昧表現だって立派なものだ。言い切りをすぐに求めるよりよっぽど深く掘り下げて考えることができる。私は素晴らしいことだと思う。

それらは社会に適合することはないのかもしれない。

インパクトを与えて改変することには向くのかもしれない。

新しいものは経験したことがないと取っ付きづらい。

経験がないからこそ知ることがあるのかもしれない。

可能性と奇跡の中で生まれたのだからその存在こそが新しいのではないか。

人の認証がないと本当にやっていけないのか。思っているだけであまり関係がないように思う。

人にルールを押し付けられたと言って、自分からまた人にルールを課すのは正しいことか。それは見苦しい。

何を軸にして大切にするのか。また、軸ではなく発展から支えるのだろうか。

完全に理解することは本当に必要だろうか。

完全に理解した後はどうなるのだろうか。それは虚しくないのだろうか。

理解しないようにして生きるのも楽しい。

私は知りたがり。わからないことを一番に恐れている。

人には何かしらの囚われがある。その囚われが克服できるのは一生をかけてなのかもしれない。

またすぐに囚われから解放されたら、他の大切なものが壊れてしまうかもしれない。

それはとても均衡を保っているように思われる。少し不思議だ。

私は自分の人生を何に捧げるのだろうか。

「自分がそこに居た」という事実を求めて目に焼け付けていきたい。

完全ではなく不完全でいい。

不完全だからこそ美しいものであるし、意味があるのだ。

課題を与えたように議題を与えるのも面白いのかもしれない。

そこに正解も不正解も存在しないのだから存分に楽しいひとときをいつしかのものへ。