kaminRe’s blog

気ままに徘徊している者です

「自由」について考える

気づいたら夜になっていました、こんばんは。

窓の外の風景に工事の塊が……

5階からのいつもの夜景が見られない状態になっていました。

しばらくこの状態に慣れろということらしいです。

 

 

少しテンションが下がったところで、どれだけ逆を行くかやってみます。

 

皆さんは、「自由」というものをどう考えますか?

「自由」と言っても色々ありますよね。今回はそれらもすべて含めての話です。

 

私が考えるには、「自由」に「平等」はつきものだと思っています。

なぜなら、私個人と同じようにすべての人の「自由」も認められるべきだと考えるからです。

その人にはその人なりの「自由」が存在します。

例えば、表現の自由、意思決定の自由、幸福の自由などです。

もしも自分の都合だけで「自由」に過ごしていたとしたらどうでしょうか?

その場合、他の人の「自由」を脅かす存在に変わってしまうのではないでしょうか。

そこで「平等」の出番です。

「平等」とは、自分と相手が対等に渡り合えるものだと思っています。

対等に渡り合うことは、相手の存在を認め、相手の意見も尊重することです。

尊重することで、お互いの「自由」を語ることができるのではないかと思っています。語ったあとには同じように行動の自由が与えられます。そこには、「平等」と「自由」の二つが存在しています。「平等」に「自由」はつきものです。また反対に、「自由」に「平等」はつきものです。この二つは自分の中では簡単に切り離せません。

自分には自分なりの、相手には相手なりの行動の自由があるべきです。人によってスピードは全然違います。似た人もいるかもしれないですし、早すぎたり、遅すぎたりする人もいるかもしれません。ですから、ある一定の領域までしか踏み込んではいけないと思っています。そのためには、距離を置くことが必要になってくるのではないでしょうか。置きすぎるとまた逆効果になるので距離感覚も重要になっていきます。そこは長年の経験で積み重ねていくつもりでいますが。

距離を置くことで相手のことを尊重できるようになっていきます。その時点では自分と反対なものだったとしても、時間をかけた分だけ相手の考え方や行動に理解を示せるのではないかということです。それが私の中での尊重するということです。その場での尊重は難しいものがあるかと思います。ですが、距離を置いてその人の立場になって考えてみてください。なぜ、相手がそう考えるのか。その行動にどんな意味があったのかを。もしかしたら、理解できるのかもしれません。空回りだっていいです。また再出発して、相手のことを認めると意思表示していけばいいのです。そういう行動が積み重なったとき、相手も考え直してくれることがあるかもしれません。そこで自分の「自由」が手に入っていきます。お互いに嫌な思いをすることなく、「自由」になれることができるでしょう。そのために、少しずつ相手を知るのです。土足で相手の領域に踏み込むことは相手に警戒心を与えてしまうことが多いでしょう。逆の人がいるのかもしれませんが、新しいことに出会ったときの抵抗を考えてください。警戒心を与えてしまってはお互いに歩み寄ることができません。ですから、少しずつ、そっと丁寧に。人間とは繊細な生き物です。警戒心を解いて歩み寄ることができたとき、今までよりも立派な「自由」が手に入ることでしょう。そこでは、「自由」だけではなく、「幸福」も入ってくるのかもしれません。その幸福が拡散して広がると「平和」がやってくるのかもしれません。ここで、自分の成長が得られます。その成長は、考え方を広く身につけることや、心に平穏をもたらして穏やかになるということです。

成長が次の成長を繋げます。その輪に輝きを与え、「自由」を得ます。

「自由」とは循環して成長していきます。

その「自由」の芽を育てるには広い目で見ていくことが必要になってくるのかと思います。

ですから、自分だけが特別な存在ではないです。すべての人も特別な存在で、今、ここにいること自体が奇跡なのだと。「自由」の存在なのだと。だから、相手を尊重する。どんな種族でも、動物でも、植物でも、物でも。そこに幸せが巡ってやってくると信じています。

すべての人が「自由」であれ!!

自分も周りも神様だと思って大切にしよう!!

 

 

現時点で考える「自由」はこんな感じです。まだまだ漠然としていて、考えが浅い部分もあるかと思いますが、時間をかけて「自由」とは何かを考えていきたいです。

 

 

 

考えるのも立派な「自由」ですから。